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福居夜話 第5話 福輪寺縄手 その1

はじめに                
1 物語のなかの福輪寺縄手       
2 福輪寺縄手はどこからどこまでだったか
3 福輪寺縄手は福居のどこを通っていたか

4 福輪寺縄手と山陽道         
5 福輪寺について           
おわりに                


はじめに

 さて、今回の福居夜話では、福輪寺縄手(ふくりんじなわて)をとりあげたいと思います。
 福輪寺*1縄手*2というのは、古代から近世まで津島(福居)を通っていたとされる道筋のことです。古代・中世においては、山陽道の道筋であったともいわれ、『平家物語』や『源平盛衰記』にその名が出てくることから、広く知られるようになったようです。
 岡山藩の郡政に関わる諸々の記録を集めた『撮要録』(巻12)に、享保17(1732)年公儀から福輪寺縄手と篠之迫(ささのせまり)に関する問い合わせがあった際の回答文書が収められています。公儀がどのような理由で福輪寺縄手について問い合わせたのかはわかりませんが、江戸時代中期に福輪寺縄手について公の関心があったことは、興味深いことだと思われます。
 それでは、この福輪寺縄手について、やはりいろいろな記録にあたりながら紹介をしていきたいと思います。
 *1 「福林寺」「福隆寺」(ふくりゅうじ)「福竜寺」(ふくりゅうじ)等とも言われる。以下では表記が混在します。
 *2 「畷」「阡」とも表記される。


1 物語のなかの福輪寺縄手

 とっかかりとして『平家物語』と『源平盛衰記』の福輪寺縄手の記述をみてみましょう。

(1-1)『平家物語』(全12巻。13世紀前半成立)(新日本古典文学大系 岩波書店刊より)
 平家の侍、備中国の住人妹尾太郎兼康(せのお たろう かねやす)は、山陽道を下って追ってくる木曽義仲の軍勢を福輪寺縄手、篠の迫で待ちうけます。

 「都合其勢二千余人、妹尾太郎を先(さき)として、備前国福竜寺縄手・篠のせまりを城郭にかまへ、口二丈、ふかさ二丈に堀をほり、逆もぎ引、高矢倉あげ、かいだてかき、矢さきをそろへて、いまやいまやと待かけたり。」
 「福竜寺縄手は、はたばり(端張)弓杖一たけばかりにて、とを(遠)さは西国一里也。左右は深田にて、馬の足も及ばねば、三千余騎が心はさきにすすめども、馬次第にぞあゆませける。」(巻第八 瀬尾最期)

 (その軍勢は合わせて二千余人、妹尾太郎を先に、備前国福竜寺縄手・篠のせまりに城郭をつくり、幅二丈、深さ二丈の堀を掘って、逆茂木を引き、高矢倉を立て、楯を並べ、矢先を揃えて、今か今かと待ちうけた。)
 (福竜寺縄手は、幅が弓杖一たけほどで、長さは西国一里である。左右は馬の足も届かないほど深い田んぼで、三千余騎の心は速るが、馬に任せて進んでいった。)

 「福竜寺縄手」の道幅と距離が示されています。すなわち、道幅は「弓杖一たけばかり」、距離は「西国一里」です。この時代の「弓杖一たけ」の標準は七尺五寸(2.3m)、一方「一里」の長さについては、条里制では6町(654m)一里でしたが、平安時代頃から西国では36町(約3.9km)一里が用いられたとのことです*3。そうすると「福竜寺縄手」は、道幅が約2m、左右が深田(深い田んぼ)の道筋が約4kmにわたって続いているイメージです。
 *3「平安時代ごろから、(中略)東国では六町一里が、上方・西国では三六町一里が用いられた。」(『日本国語大辞典』)

(1-2)『源平盛衰記』(全48巻。14世紀後半成立)(三弥井書店刊より)
 『源平盛衰記』は、『平家物語』の異本のひとつ。『源平盛衰記』の福輪寺縄手の記述は、長門本の『平家物語』と類似しています。

「其の勢三百人バカリ在ケレ共、ソモ物ニ叶ベキハ僅ニ十、二十人ニハ過ザリケリ。此勢ヲ相具シテ、兼康ハ西河*4、裳佐*5ノ渡ヲ打渡、福輪寺阡ヲ掘切テ、管植逆木(ひしうえ さかもぎ)引ナドシテ、馬モ人モ通ガタク構タリ。彼阡ト云ハ、遠サ二十余町、北ハ蛾々タル山、人跡絶エタルガ如シ。南ハ渺々タル沼田、遥ニ南海ニ連タリ。」(巻33 木曽義仲備中下向・兼康討倉光)
*4 西河:旭川。 *5 裳佐:牟佐。

(その軍勢は三百人ほどであったが、ものの役に立ちそうな者は僅かにその内の十、二十人に過ぎなかった。この軍勢を従えて、兼康は西河を裳佐の渡で渡り、福輪寺阡(ふくりんじなわて)に堀を掘って、菱を植え、逆茂木を引くなどして、馬や人が通れないように備えた。その阡(なわて)というのは、長さが二十余町で、北側は人が入り込めないような山が聳えていた。南側は、広い沼田がはるか南海にまで続いていた。)

 ここでの福輪寺阡は、長さが二十余町(約2.2km)、道の北側には山が聳え、南側は沼田がはるか先の南海まで連なっている様子が描かれており、上記の『平家物語』とは大分違うイメージです。
 なお、長門本『平家物語』では「西河、裳佐ノ渡ヲ打渡」の部分が「西川の三のわたりして」と、西川(旭川)を三野で渡る話になっています。


2 福輪寺縄手はどこからどこまでだったか

 福輪寺縄手の「縄手」とは、「田のあいだの道。あぜ道。」のことで、「長く続くまっすぐな道」(『日本国語大辞典』)という意味もあります。『平家物語』の記述にしたがうと、福輪寺縄手は、両側が深田で、幅2mほどの道がまっすぐに続いているというイメージです。この縄手が福輪寺というお寺の前を通っていることから、福輪寺縄手と言われたと伝えられています。ただし、この福輪寺については後でみますが、津島にあったということは伝えられているものの、すでに江戸時代には津島のどこにあったか、確かなことはわからなくなっていました。
 福輪寺縄手に関する記録をみてみましょう。いずれも江戸時代のものです。

(2-1)『吉備前鑑』(著者不詳 貞享・元禄年間(17世紀末頃))
 「一 大覚屋舗(古老云く、朝寝の鼻より此処に至る中間を福隆寺縄手と云ふ。)」

(2-2)『備前記』(石丸良定 元禄17(1704))
 「津島村(中略)
 一 村東山麓ニ大覚屋敷ト云アリ、朝寝鼻ヨリ爰ニ至る間ヲ福林寺縄手ト云由」

(2-3)『和気絹』(高木太亮軒 宝永6(1709)序)
 「一 朝寝鼻。 半田山大坂の西の尾崎をいふ。是より津高郡辛川までを福林寺縄手といふ。」

(2-4)『撮要録』「公儀より御尋有之由に付書出」(享保17年(1732))

 「福輪寺縄手之義 西国往還筋 元亀天正之頃ハ御野郡津島村山際を通候由 右村東朝寝鼻より大覚屋敷之辺までを福輪寺縄手と申由」「朝寝鼻通より大覚屋敷の辺りまで道法凢十六町*6
*6 十六町は、約1.7km。

 (福輪寺縄手のことですが、西国往還筋は、元亀天正の頃は御野郡津島村の山際を通っていたとのことです。村の東の朝寝鼻から大覚屋敷のあたりまでを福輪寺縄手というとのことです。)
 (朝寝鼻通から大覚屋敷のあたりまでの道のりは、およそ十六町)

(2-5)『備陽国誌』(和田正尹ほか 元文4(1736))
 「福林寺畷。 津島の内福井のあたりより、津高郡辛川村までの間を福林寺畷といふ。又福隆寺畷ともいふ。」

(2-6)『吉備温故秘録』(大澤惟貞 寛政年間(1789-1801))
 「福林寺 又福輪寺と云津島の内、福井のほとりより、津高郡辛川邉までの間を云。」
 「朝寝の鼻 同村の内半田山大坂の西の尾崎を云 惣じて此邉を福輪寺縄手といふ。一説に此朝寝の鼻より津高郡西辛川村までをいふ共。」

 以上の記録で、福輪寺縄手が津島にあった道筋であることはわかりますが、視点と終点については複数挙げられています。すなわち、始点となる東の端としては、「朝寝鼻*7」と「福井*8のあたり」の2説、又終点については「大覚屋敷*9」までと「津高郡辛川村*10」までの2説があるようです。
 *7 朝寝鼻(あさねばな):「半田山大坂の西の尾崎」とされ、現在の岡山理科大学正門あたり。
 *8 福井(福居):当時津島村には、枝として西坂、市場(本村)、奥坂、新野、福居(福井)、羽浮(土生。はぶ)があった。福居は、津島村の内の東寄り、山寄りで、西は奥坂と市場、東は羽浮に接していた。
 *9 大覚屋舗(だいかくやしき):(2-4)に「往昔津島之西坂と申所に福輪寺と申寺之有由 此寺に日蓮宗の寺大覚暫く滞留之有に付 福林寺之跡を大覚屋敷と申候」とあり、福輪寺縄手の名前の由来となった福輪寺があったところとされている。
 *10 津高郡辛川村:現在の北区辛川市場あたり。古代山陽道の駅家「津高駅」があったと想定されていた。

 上記の記録の内、(2-4)は公儀からの問い合わせへの回答、(2-5)は岡山藩最初の官選地誌と言われているものです。両者とも公的記録と言えるもので、殆ど同時期のものですが、福輪寺縄手についての記述内容は異なっています。
 『備陽国誌』にしたがって、終点を津高郡辛川までとすると、途中渡月坂(戸月峠)あるいは烏山と坊主山の間(篠の迫)を通ることになり、縄手(「あぜ道。」「長く続くまっすぐな長い道」)とは言えないようにも思われます。又直線距離で6km以上ありますので、一里(約3.9m)や二十町(約2.2km)より大分遠くなってしまいます。
 一方、始点は、「朝寝鼻」とする記述の方が多いようです。(2-1)『吉備前鑑』に「古老云く」とありますので、昔を知る土地の人は朝寝鼻のあたりを始点と考えていたと推測されます。
 福輪寺縄手については、上記以外にもいろいろな文脈で言及されることがありますが、ここでは、(2-4)にしたがい、「朝寝鼻」あたりから「大覚屋敷」(福輪寺跡)あたりまでとし、その距離はおよそ十六町(約1.7km)を妥当なものとしておきたいと思います。


3 福輪寺縄手は福居のどこを通っていたか

 津島(福居)を通る福輪寺縄手ですが、実際にどの道筋だったかということも明確ではありません。岡山大学津島キャンパスの北の塀沿いの道が朝寝鼻あたりから津島小学校のグランド付近まで一本道になっていることから、この道を福輪寺縄手と想定する見解もありますが、この道が一本道になったのは、明治40(1907)年、今の岡山大学津島キャンパスの地に陸軍第17師団が創設されて以後のことだと思われます。それまでは、左図(明治28年測図)のとおり、今の津島福居と津島東の境付近に成田山という小山(矢印)があったため、この山を迂回するように道が通っていました。
 このあたりは「羽浮」(土生)というところで、「古へは歌島といひし由、半田山の裾に少さき山あり。」「これを歌島といふか。」(『吉備温故秘録』)との記録もあり、永山卯三郎氏はこれを受けて、この歌島の一部が成田秋佩(『日本人名大辞典』では、岡山備前藩士の成田太郎。秋佩(しゅうはい)は号)の所有となったことから、成田山と呼ばれるようになったとしています(『岡山市史 第1』(1936))。この成田山は、明治40年頃陸軍第17師団敷地の埋め立てのために取り崩され、南端の一部を除いて跡形もなくなってしまいました(同上)。この成田山が取り崩されたことによって、現在の岡山大学の北の道が一本につながったと推測されます。
 なお、成田山の南端の一部は、今でも岡山大学のキャンパス内に残されています。 

 それでは、他に考えられる福輪寺縄手筋はどこかということですが、岡山大学は長年にわたる津島キャンパスの発掘調査により、キャンパスの北端から南に100mほどの位置に古代から近世まで使われた東西700m以上にわたる溝の跡を確認しています。さらに、その溝の脇に並行する道筋が想定されるとして、それを福輪寺縄手と比定しています。(左図「発掘された中世の溝と道」クリックで拡大)この道筋を西に伸ばすと、福居を流れる中川用水の筋につながり、条里の区画の東西方向とほぼ一致します。又この道筋を東に伸ばすと、三野で旭川を渡って、備前国府があったとされる国府市場を通る道筋ともつながります。古代山陽道は、後から確認をしますが、今の国府市場あたりから三野で旭川を渡り、津島を通って津高に至るルートもあったとされていることから、ここで福輪寺縄手と山陽道とのつながりが示唆されてきます。
 そうすると、福輪寺縄手の始点とされている「朝寝鼻」と離れてしまうと思われるかも知れませんが、(2-4)の資料では、福輪寺縄手の始点を「朝寝鼻より」ともしています。「朝寝鼻通」がどの道筋か、今では確認することができませんが、この「朝寝鼻通」を朝寝鼻から南へ伸びる道筋と考えると、説明はつきそうです。

 もうひとつ確認をしておきたいのが、池田家文庫(岡山大学所蔵)の中の絵図「上道郡藤井驛西端ゟ御野郡釣之渡福林寺縄手通り古道見取凡絵図」に描かれた福輪寺縄手です。この絵図(リンク)では、国府市場村から旭川までほぼ直線で、旭川を渡ってからは座主川に沿って津島を西に進み、烏山と坊主山の間を通って富原に至る古道が描かれています。そして福居のあたりから奥坂あたりまでの座主川沿いの道筋を「福林寺縄手」と表記しています。この絵図の作者や作成年等は不明ですが、この絵図では管掛川が座主川の上を流れるように交差して描かれていることから、少なくともこの管掛川工事が実施された寛文3(1663)年以降のものであると考えられます。つまり江戸時代には、福輪寺縄手は、福居のあたりからの座主川沿いの道筋と考えられていたと推測され、福輪寺縄手の始点を「福井のあたり」とする『備陽国誌』や『吉備温故秘録』の記述と通じるところがあります。又右図(クリックで拡大)は、(2-4)に添えられた絵図ですが、ここでも福輪寺縄手は座主川沿いに描かれています。

以下福居夜話第6話に続く。

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